徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之参
あのときと このときと・・・
胡錦涛主席は、訪日のしめくくりに奈良の唐招提寺などを訪問、帰国直後に四川大地震(M8)の衝撃に接した。温家宝総理が即日現地に飛び、軍民あげての救済、支援活動が展開されているが、死者は8万人をこえるか(5月24日現在)との報道もある。二次災害の危険も予測されている。阪神大震災(M7.3)の数十倍の規模、被災者のこれからの日々に、あのときの思いがつながる。
1995年1月17日 早暁5時46分。
ドンとからだを突きあげられるようなショックで目を覚ました。
地震だ! 二度三度上下にゆれ、横揺れが激しくなる。
ガラスの割れる音、本が一度に落ちてくる。
あわてて布団をかぶり、傍の座敷机の下へ頭を突っ込む。
隣室の娘の悲鳴が聞こえるが身動きがとれない。
揺れが収まらない。長い。いままでに経験したことのないひどさ、長さ、実際は40秒であったらしいが、数分くらいに感じた。
眼鏡をさがすが見あたらない。
電気がつかない。
服のポケットのライターを思い出しとりだす。
一瞬の光に照らし出された室内は、手のつけようのない散乱ぶりで、ガラスの破片が光る。
階下から妻が呼んでいる。
おばあちゃんはどうだろうか、半分宙に浮いたような階段を、ライターの頼りない燈をかざして手探りで下りる。
まだ余震が続いている。
外から安否を気遣うご近所の方たちの声。
玄関はドアも傾き、ガラスが周辺に散乱している。
表に飛び出して、・・・門柱が倒れている。
ブロックの塀も・・・瓦が庭にズリ落ちて・・・植木が傷つき・・・、
そして、猫たちもいない・・・。
ライフラインのすべてが切れ、小学校の体育館へ避難。
それから一年近く、県外の被災者住宅での仮住まい生活を送ることになった。
あのときの恐怖は、いまもからだに沁みこんでいる。
四川は、蜀の國である。
三国志は、人口に膾炙している。
わたしも三度訪問した。
重慶からの三峡下りを愛で、二度目は大足―成都―峨眉山の世界遺産に遊んだ。三年前には九賽溝まで足を伸ばして、その神秘美に驚嘆した。三星堆遺跡で買った、宇宙人のようなミニチュアはいまもわたしのパソコンの横に鎮座している。
そして、四川では「ワイルド・スワン」の話を思い出す。
「大躍進」時の行倒れ・餓死者の数々、「文革」時の“非情”なる闘争。
それに終止符を打ったのは、75年から5年間、四川省党第一書記を務めた趙紫陽であった。かれは「農家経営請負制」を導入、農業生産を飛躍的に発展させ、「メシが欲しければ、趙紫陽を探せ」という言葉が流行する。80年には
華国鋒失脚のあと国務院総理に昇任、80年代は胡躍邦総書記とともに鄧小平を支える「車の両輪」と称せられた。
89年の天安門事件の責任をとらされて失脚したが、いまの中国経済発展の道筋をつけたのは、「趙紫陽なき趙紫陽路線」といわれる改革開放の基本方針であった。
天安門広場で学生たちと対談した趙紫陽に付き添っていたのは、温家宝秘書(現総理)であった。かれは以後、江沢民、胡錦涛と三代の総書記に仕える篤実な政治家である。
76年7月の唐山大地震(M7.8)のとき、わたしの同僚たちは震源地から400キロ離れた済南のホテルで罹災、交通・通信網が遮断され、数日間音信不通でその安否が気遣われた。
10月に四人組が逮捕され「文革」は終焉に向かうが、厳しい冬空でも北京の長安街(メインストリート)や公園にはテントや掘立小屋で過ごす大勢のひとたちがいた。情報統制でその実態が明らかになったのは数年後、死者は24万人をこえ、震源地の唐山市は壊滅していた。
情報隠蔽は2003年のSARS発生初動時にもおきたが、中国の対外開放で外資企業が多数進出、その上インターネットと携帯電話の普及で“アタマ隠して・・・”
の状況となった。しかし、2006年の陳良宇・上海市共第一書記逮捕の伏線となる「周正毅事件」、これをめぐる胡錦涛主席と上海グループとのあつれきは、いまだそのすべてが白日に曝されてはいない。
3年前の九賽溝へのたびは、4月の「反日」行動で参加者は半減していた。
そのとき成都のヨーカ堂(成都伊藤洋華堂)もガラスを割られるなど被害を受けたが、今回のチベット問題ではフランスのスーパー「カルフール」(家楽福)不買も成都店がその導火線になっている。
成都は、政治に熱い都といえるだろう。
いま、被災者の救援と二次災害の防止に中国のメディアが、連日トップの動きも含め全国に情報を流している。日本ではその報道姿勢にとかくの意見はあるが、わたしは唐山以後の被災の歴史を振りかえって、中国もここまできたかと感慨深い思いがする。また、阪神大震災のとき、貝原兵庫県知事以外に日本のトップが震災現場に貼りつき、汗を流したかとも思う。
5月19-20日、上海で男女各500名の「消費者調査」が行われた(上海サーチナ)。地震発生直前までは、日本に好感をもたなかった人が50%以上に達していたが、日本の救援隊派遣や義捐金の拠出などで83.6%のひとが好感度を示したという。多分に一過性もあろうが、こうした情報を共有することは大切である。
数年前の秋、久しぶりに唐招提寺に足を運んだ。
崩れ落ちかけた土塀の連なるたたずまいは変わらなかったが、金堂の大修復が始まっていて訪れる人は皆無であった。そのときわたしははじめて金堂の裏の築山に足を踏み入れ、修復工事の足場などを眺めまわっていたが、ふと傍の
樹に何か説明が記されているのに気づき、目を近づけた。それはなんと趙紫陽総理の訪日時(1982年5月)の記念植樹であった。
胡錦涛主席の来訪に先立ち、中国外務省の先遣隊はここを訪れている。
しかし、おそらくこの植樹のことも知らないであろうし、日本の関係諸団体も25年前の歴史まで遡って考えている人は少ないであろう。だが水をやり、丹精を込めてその成長を見守ってきた同寺の関係者はこのことを熟知している。たとえ、天安門事件で失脚、まだ公式には名誉回復していない人であろうと、一国のリーダーであった人。その思いは、6度目の渡航で来日した鑑真和上の信念につながることであろう。
胡錦涛主席の訪日時には、まだ北京五輪聖火リレーに反対する動きが強く、唐招提寺にもいやがらせの電話や、抗議のファックスが届いていたという。
関係団体からも同寺へ激励メッセージ要請のファックスが届いたが、いらぬこととわたしは無視した。この記念植樹の成長を見守り続けている方々にそんな非礼なことは出来ない。
「北京五輪」開幕まであと60日足らず。
死せる趙紫陽、生ける胡錦涛を走らす、ことであろう。
(2008年5月28日記)
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