太郎助のコーナー第十回
「武勇・仁義の人 中川清秀」⑧
《清秀、茨木城主となる》 熊野田千助奮戦す!
明けて二十九日、勢いに乗った荒木勢は軍評定を開き、先の白井河原の合戦で討ち死にした茨木佐渡守の居城である茨木城を攻めることにしました。
『この度の清秀殿の武勇は抜群である。攻め取って居城とするがよい。』
と村重は言いました。さっそく清秀は手勢の編成に取り掛かりました。
九月一日の暁、郡山を出発した清秀軍に近郷の領主が味方に加わりました。
下村市之亟、熊野田孫七、鳥飼四郎太夫、山脇源太夫、太田平八、粟生兵衛尉、戸伏一族各手勢を引き連れて合流します。
これに対し、茨木方は太田郷の山々、西の尾根伝いに布陣し弓、鉄砲を撃ちかけ激しく抵抗しました。
しかし、先鋒隊熊野田千助に加勢の軍勢も加わり、鉄砲隊を先頭に即座に追い払い競い合って進軍します。
熊野田孫七、森田彦一郎は地蔵峠(現:千里丘陵付近)より、手勢を引き連れ、西南よりせめかかります。茨木方の水尾図書助(ずしょのすけ)、倉垣宮内少輔(くないしょうゆう)は激しく抵抗するも、先鋒隊は中川家でも一騎当千のつわものたち。たちまち二将は討ち取られてしまいました。
熊野田千助は勝どきを上げ、真っ先に茨木城に進撃しました。茨木勢は悉く城内に引き上げていきました。
熊野田孫七、森田彦一郎は城下に押し寄せ、木戸を打ち破って茨木の町に攻め込みました。城兵も出撃し、必死に防戦しましたが、熊野田千助が先頭に立って槍を振るうと、これを見た味方の将兵は奮い立ち、たちまち外郭を打ち破って、城の大手の虎口(現:茨木市元町)に迫りました。しかし、佐渡守の父翫月斎(がんげつさい?)は頑強に抵抗します。城兵と激しく戦ううち、千助は疵を受けましたが少しも怯みません。
槍を振るい、先頭に立って突き進んでゆきます。遂に三の丸を攻め落としました。この様子に二の丸(片桐町旧町役所跡)を守る城兵は戦意喪失し、城門を開いて降参しました。
翫月斎は本丸(現:茨木市片桐町茨木小学校)に立て籠もり、必死に防戦しましたが、夜になって城内から裏切り者が出て、茨木城は遂に落城したのです。
清秀は茨木城を手に入れ、六万石の大名になったのでした。
清秀はさっそく、戦で荒れ果てた城下の整備を始めました。そのとき、新庄の城からは清秀の徳を慕って多くの人々が移住してきました。そのため、その場所は新庄町(現在も茨木市にある)と呼ばれるようになりました。
【熊野田千助】
名は資勝。摂津国熊野田(現:豊中市熊野町)の城主、熊野田隠岐守資利の嫡男。
姉は中川清秀の妻、稍(やや)。永禄年間(1558~69)に清秀の幕下(ばっか)に属し、日夜昵近(じっきん)してついに家老となる。後中川の姓を賜り、中川隠岐守となる。
※中川氏御年譜によると「千助以後、熊野田を熊田に略す」とあります。
※ 豊中市熊野町の八坂神社。熊野田氏の居城があったとされる。
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