徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之弐
春 の 海
はらだ おさむ
あれはたしか92~3年のころ、であったと思う。
万博記念公園で「世界緑化フォーラム」が開催されたとき、中国代表としてひとり参加された李 徳華教授(上海同済大学建築系)から斎藤和夫先生(当時大阪府日中経済交流協会理事長)に電話があり、「春の海」を探したい、とのこと。教え子の留学生を通訳につけるのでよろしくとのお願いが、リレーされてわたしに廻ってきた。
80年代後半、協会の事業のひとつとして中国の専門家と上海の街並み改造の共同考察に取り組んでいた。斎藤先生は日本側チームの責任者、そして、李 徳華教授は上海側考察組の最高顧問、何回か食事をともにしたことがある。先生は解放前アメリカに留学したこともある中国を代表するエリート、同夫人は教え子であったとはいえいまは上海建築学会の会長、許認可の権限をもつエライひと、と片目をつむってみせる愉快な、先生でもあった。
あるとき、話題が文革のころのことになった。
やはり紅衛兵たちは先生の自宅に押しかけていた。
さもありなんと、あらかじめ覚悟を決めていた同先生は、すすんでかれらにブルジョア思想に毒された絵をもっていました、と浮世絵の数点を差し出した。
紅衛兵たちは、これを手にして家宅捜索を打ちやめ、意気揚々と引き上げて行った。高価なものではあるが、浮世絵は版画(錦絵)である、世界に二つとないものではないと、先生は確信されていたのであった(知らないのは、純粋無垢な?紅衛兵たちであった)。
文革が終わり、アメリカでの会議に出かけたとき、なにかのきっかけで友人にこの話をしたら、かれは呵呵大笑、おなじものは無理だろうが何とか探してみるよと、後年その約束を果たしてくれた、という。
日本の浮世絵が、アメリカと中国の知識人に愛好され、それがこの高名な中国人学者を文革の嵐から救ったことを知り、感動を覚えた。
その李 徳華先生から、「春の海」探索のお願いが来たのである。
先生は宮城道雄のこの名曲に深い愛着を持っておられたのであるが、紅衛兵たちの暴挙からこのレコードは守ることが出来なかった、そのCDはいま手に入らないでしょうか、というお願いであるとか。
WANTED「春の海」、これはなんとしてでも、とお引き受けしたが、数軒のCDショップは在庫なし、いまと違ってパソコン探索のない時代、電話をかけまわってやっと心斎橋商店街の一隅で入手することが出来た。
「春の海」の静かな調べを耳にしながら、カンペイを繰り返したのはいうまでもない。
あぁ、春の海が恋しい・・・。
姫路菓子博の開幕で込み合う山陽特急を飾磨駅で降りて網干線に乗換え、さらに神姫バスにゆられて「室津」に着いた。いまは、たつの市御津町の一漁村に過ぎないが、江戸時代の参勤交代華やかなりしころ、西国諸大名の江戸参府で賑わい、長崎出島のオランダ高官や朝鮮通信使の往来にも利用された海の「宿駅」であったところ。
熊本藩の参勤交代でみると、享和元年(一八〇一)の参府は二月二十三日熊本城を出発、陸路5日のあと小倉を経て6日目に下関から乗船している。室津港上陸は12日目の三月五日、一泊のあと以後は陸路で江戸着は34日目の三月二十七日。嘉永三年(一八五〇)の帰国の場合は、中山道経由で24日目に姫路を経て室津に一泊。瀬戸内海の島々を巡り8日目に大分の鶴崎港に上陸、江戸から40日目に熊本に帰城となっている。
最盛期は七拾藩の諸大名が利用したとあるが、宿泊した陣屋のすべてが姿を消し、豪商の二つの建物が「室津海駅館」、「室津民族館」として保存活用されていた。
シーボルトが江戸参府日誌で絶賛している賀茂神社からの眺望は、浮世絵そのままの春の海、そう、この春の海が、李 徳華教授の思い出の「春の海」につながっていくのか。
「春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな」(蕪村)の句も浮かんでくる。
ひねもすちゃいなから離れて、このところ少しずつ身辺整理をはじめているわたし。別にあの世へ行くためではない、遅すぎた第三の人生~林住期へむけての準備である。
けさ 書棚の奥から、90年代初めごろ読んでいた本が数冊出て来た。
そのうちの一冊が、『現代』(94年12月号)であった。
残っていたのは、この特集=「『仮想敵国』中国の実像」のせいらしい。
ことがらはその都度変わるが、メディアの発想と切り込み方は十年一日、ページを拾い読みしてもそれほど代わり映えはしない。
数名の執筆者のなかで、加地伸行先生のつぎの一文は、さすが長いスタンスで物事を見て来られている専門家の発言と思った。
「感傷は侮辱へと転化する」
・・・日本人は、ともすれば<名>に流れ、悠久の歴史、子々孫々までの友好などなどの浪花節に酔いがちである。それだけに、感傷的な対中意識は、もし事件が起これば、いとも簡単に反中国、中国侮蔑へと転化してしまう。そうしたことが、これまで何度あったことだろう。その大きな原因は<名>や<実>に対する日中両国人それぞれのすれちがいにある。そして、それがわかっていないことである。(同誌97頁)
港を望む高台にある浄運寺(浄土宗)には、江戸時代の中期に仏像の改修(金箔の貼り付け)などを寄進した人たちの、大きな墓が残されている。いまは町が寂れて、廿数軒の檀家しかないこのお寺の無縁仏の数々は、栄枯盛衰のこの世のならい、その移り変わりを、どのように眺めていることであろうか。
のたりのたりとしている春の海であったが、きのうの歴史はあすに思いをつなぐ波をただよわせていた。
(2008年4月28日 記)
これは、紙面をお借りしてのご紹介です。
このたび『ひねもすちゃいな 徒然中国』というタイトルで以下の内容の本を自費出版しました。
序文 遠見の人、そして―
飄々たる文学青年 京都大学名誉教授 竹内 実
プロローグ ひねもすちゃいなの回想記
第一部 中国のきのう・きょう・あす 第二部 あのとき・あのころ
第三部 映画と小説にみる中国のいま 第四部 外地から中国をみる
第五部 林住期への想い
エピローグ ユメは中国をかけめぐる
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