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2008年3月

2008年3月31日 (月)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく)  其之壱

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時 は 春


 ブラインドから差し込む日差しに思わず、ときははる、ひはあした、とつぶやいて、はて、これはと、階段のなかばで足が止まった。
 時は春、日は朝(あした)、朝は七時、と浮かんで、続いていく。
 この言葉は、どこで覚えて、いま口から出てくるのか。

 調べてみると、上田 敏の訳詩、ロバート・ブラウニングの詩であった。 
 この半世紀、中国漬けであったわたしの頭のなかで消えていた記憶が、このところ思わぬところでひょこっと甦ってくる。この詩集は、たしか中学2年くらいのとき愛読したことがある。

 時は春、
 日は朝(あした)、
 朝は七時、
 片岡に露満ちて、
 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
 蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
 神、そらに知ろしめす
 すべて世に事も無し。

 これも老境に入る現象のひとつか。
 先日観た中国映画「胡同の理髪師」に通じる思いでもある。

胡同(フートン)の理髪師
 文革前、胡同に住む知人の四合院を訪ねたことがある。
 住宅難の折から数世帯が住み、ひとであふれていたが、初対面のわたしにもにこやかな会釈が返ってきていた。
 この映画はオリンピックをひかえ、近代化の波に押し流されている北京の下町を描き出しているが、そのことを声高に主張する映画ではない。新しい波が古いものを駆逐していくなかで静かに生き、死を迎える人びとの物語である。

 主人公は93歳、現役の老理髪師のチン・クイさん。
 今朝も6時に起きて、5分遅れの時計のねじを巻きなおし、コップの入れ歯を口にして、鏡に向かい銀髪に櫛を入れる。
 きょうはこの時計を修理に出そうと、リアカーつきの三輪自転車で出かける。
 終わり近くの場面でも、おなじようなシーンが出てくるが、内蒙古出身のハスチョロー(哈斯朝魯)監督はドキュメンタリータッチのなかで、ストーリーはきちっと計算して組み立てている。
 チン老人はこの道80年の現役の剃頭匠、いまはむかしのおなじみさんだけを家庭に訪ねて仕事をしているが、その剃り具合の鮮やかさはわたしもお願いしたいほどの腕前。後半の場面で息子のマンションに引き取られたチャオ老人がダダをこねて息子にチン老人を呼びにやるのも無理はない。息子は孤老の親をいたわって引き取ったのではない、いずれ解体され、立ち退くことになっている住宅の補償金が目当て。クルマで送り迎えされたチン老匠は息子の差し出す200元の札束に見向きもせず、クルマを降りる。

 チンさんのカレンダーには、週に2~3回の仕事の予定が書き込まれている。
 午前中はなじみ客の理髪をし、午後は頭の運動にと気のあった近所の老人たちと麻雀卓を囲む。
きょうも先月「テレビばかり見ているとバカになる、麻雀でもしたら・・・」と忠告したミー老人宅に来たが、応答がない。猫の鳴き声・・・なかでは死後数日になるミー老人の傍で見守る黒猫がいた。遺体を運び出す救急隊員を見つめるチンさんとミー老人の愛猫。この3人の老人たちはすべて素人だが、役にはまっている。
三輪自転車を引いて帰るチンさんのリアカーには、この黒猫が鎮座していた。

 地区の世話役(中年の女性)が、身分証の書き換えのため写真はあるかと訊ねる。今度の証明証は20年間有効よ、と念を押されて写真館に行くチン老人。
カメラの前で何度も櫛を入れるオシャレなチンさん。痩せ型の、彫りのある顔立ちは敗戦後北京から日本へ帰る女給さんに泣かれた(実話)というのも頷ける。
 友人の孫が家に訪ねてきて、肖像画を描き始める。
 うちの大学で画学生のモデルになってもらったら、理髪よりもいい収入になるよ、と薦めるが、相手にしない。
心の中まで描けた、いいスケッチが出来たよと、あとで届けられた自画像(複製)を時計の下に飾って、テープレコーダーに自分史を語り始める。

けさ6時前に時計が止まって寝過ごした。
時計店へ修理に出そうといつもの道を走っていると、目の前が暗くなりボヤける。立ちくらみの症状、わたしも昨年経験した。チンさんは自転車を道端に停めたまま歩道の片隅に座り込む。一瞬これでジ・エンドと思うことしばし、と、つぎのシーンは人通りから少し離れた堀端(北海公園の南?)の木陰で髪を刈ってもらっているチンさんがいる。いつも通りすがらに見かけるあの同業者にだ。
次のシーンは公衆電話で話をしているチンさん、手になにやらチラシを持っている。相手は葬儀屋らしい、遺影、死装束、500字程度のプロフィール・・・、葬儀の前に用意するものを教えてもらっているようだ。
そうか、テープに500字のプロフィールを吹き込んでいたのか。これだけしゃべると誰が500字にまとめる?

しゃべり疲れてウトウトとしたチンさんの鼻の前で、黒猫がなにかをひっかき、あっテープ、それはダメだよ、と思うもつかの間、猫はじゃれてテープを
引きずり出してしまう。
 翌朝、チンさんはベッドのなか。
 いつも無心に来る病身の息子が部屋に入ってくる。
 遺影を見ておどろき、あわててベッドの布団をめくり上げる。
 起き上がるチンさん、ベッドの下から紙箱を取り出し10元札の束を伸ばして渡そうとするが、きょういい、孫が出来た、あんたの曾孫の誕生を知らせに来たんだ、とあたふたと出て行く。

 胡同の向こうの空に、高層ビルが立ち並び、クレーンが動いている(ジ・エンド)。
 
人は老い、この世を去るが、少子化の社会は衰え、活力をなくす。
日本だけではない、中国も高齢化が急ピッチで進んでいる。
「北京五輪」にこの「高齢化問題」を掛け合わせた監督の視点は鋭い。

ときは春だが、木枯らしの舞う冬は確実にやってくるのである。
                    (08年3月30日 記)


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2008年3月26日 (水)

太郎助のコーナー第九回

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長らくお待たせしました!?中川瀬兵衛尉清秀只今見参!武勇、熱血の将、清秀の活躍をご覧ください。


【前回までのあらすじ】
 中川瀬兵衛尉清秀(通称:瀬兵衛)は摂津の戦国武将。天文十一年(1542)、旧福井村中河原(現:茨木市)に生まれた。齢十九歳の初陣よりその武勇は限りなく、摂津池田(現:大阪府池田市)の城主池田勝正に仕えて後は「池田二十一人衆」(池田家の家老)の随一として武勇を近辺に知らしめた。

 同じく二十一人衆であり、従兄弟にあたる荒木村重(後の伊丹・有岡城主)が台頭するやこれに味方し、各地で武功を挙げる。しかし、村重の台頭を快く思わない勢力がいた。ライバル和田惟政である。度重なる惟政の挑発に村重は決戦を決意する。

この度、惟政を討ち取りし者には呉服庄(くれはのしょう 現:池田市呉服)五百貫の知行(領地)を与えると。そこに名乗りを上げた一人の漢(おとこ)、その名を中川清秀。清秀は言う。必ずや明日の戦には和田が(の)首を挙げんと。



太郎助のコーナー第九回

「武勇・仁義の人 中川清秀」⑦

《白井河原の戦い》② 人間百歳までは生きぬぞ!いざ掛かり、討ち死にせよ!


卯辰の刻(午前六時~八時)、白井河原に到着した村重の軍勢は三千。郡山より馬塚にかけて布陣します。対する和田惟政は茨木の城主、茨木佐渡守重朝を味方につけ、その数一千、糠塚(ぬかづか)に布陣し村重軍(池田勢)と対陣しました。

この時惟政の家臣、郡兵太夫が進言しました。

『殿!荒木勢は思いのほかの大軍。御味方苦戦するは必至!大将は強いだけが能ではなく、可を見て進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将でござる。』

しかし、剛勇を誇る惟政は

『だまれ!臆したか兵太夫!荒木勢は寄り集まりの池田衆である。それに比べ我らは一騎当千のつわもの揃い。一人にて六、七人は相手してくれようぞ!』

と言って聞き入れません。

(もはやこれまでか・・・かくなるうえは武士らしく華々しく散るまで!)

兵太夫は死を覚悟しました。


※進言を聞き入られなかった兵太夫は名馬「金屋黒」にまたがり、敵中に突き入って縦横無尽に戦ったが、遂に池田の武将、山脇源太夫に討ち取られました。


さて惟政は茨城佐渡守を先陣として、郡兵太夫、十河杭之助に鉄砲隊を与え白井河原に進軍を開始します。この知らせを受けた荒木方の陣営では、諸将たちが村重に進言します。

『敵は明らかに小勢。にもかかわらず白井河原に軍勢を押し出してきたからには後詰(ごづめ)=応援の伏兵があるに違いございませぬ!此度の合戦思い直されてはいかがか。』

しかし清秀はこれに反論します。

『いや、今敵の様子を見るに和田は武勇の大将である。後詰を頼む武人ではござらん!』

そう言って一呼吸置くとニヤっと微笑み、

『その上、和田の布陣するは糠塚、お味方の布陣するは馬塚。馬の喰らうべき糠塚敵陣なればお味方の勝利間違いなし!グズグズしてはなりませんぞ。』

これを聞いて村重は決断します。

『よし!これより軍勢を三隊に分ける。和田をおびき出し、伏兵にて殲滅(せんめつ)してくれようぞ!』

作戦どおり荒木勢は負けたふりをして敵をおびき寄せました。

『やはり思った通りじゃ荒木勢は烏合の衆、我らの敵ではないぞ!』

惟政は勢いに乗って糠塚を発し、馬塚めがけてまっしぐらに突き進んできます。

敵味方の距離は一町(約109m)に迫りました。

(今だ!)

それまで馬塚より戦況を眺めていた清秀は戦場に響き渡る大きな声でさけびました。

『人間百歳までは生きぬぞ。いざかかり討ち死にせよ!』

そう言うが早いか、先陣を切って和田勢の横腹めがけて突きかかりました。

不意を衝かれた和田勢は大混乱です。四方八方に逃げ散ります。

(このなかに和田惟政は必ずいる!)

清秀は手勢を二手に分け、『見つけ次第、惟政を討ち取れ!』と命じました。

自身は、田島伝助、槍持といった二人ばかりの家来を引き連れ、敵陣深く突き進んでゆきました。このとき、田島伝助がふっとみると、敗走する敵軍の中に二本靡(にほんなびき)の旗指物に唐の頭(かしら)の大鎧を身に着けた大将を見つけ、『殿!あれこそは大将惟政でござるぞ!』と清秀に告げました。

(おお!あれぞまさしく惟政。逃すまいぞ!)

『和田殿とお見受けいたす!我こそは中川清秀、尋常に勝負!』と名乗りをあげるや、馬より降り立ち惟政めがけてまっしぐら!付き従う家臣は十七騎、いずれも馬より降り立ち一丸となって和田の手勢と戦います。

『おのれ!小癪な』

惟政は馬を縦横に乗り回し、清秀たちに襲いかかりました。

「殿ぉ助太刀に参りましたぞ!」

先代より仕える老臣丸山孫六が駆けつけ、大身の槍で惟政の馬を貫くと、馬は甲高いいななきをあげ、惟政を振り落とします。しかし惟政はさすがに豪の者。すばやく馬より降り立ち伯耆安綱(ほうきやすつな)二尺七寸の太刀を抜き放ち、四方八方に切りかかります。清秀は惟政と激しく太刀打ちし、最後は組討にて遂に惟政の首を討ち取りました。

『中川清秀、和田伊賀守を討ち取ったり!』

大将惟政の討ち死にを知った雑兵たちは慌てふためき敗走してゆきます。しかし、主君を討たれては武士の辱。心ある武士は最後まで勇敢に戦い悉く討ち死にしました。

(敵ながら見事。あっぱれじゃ・・・)

清秀は忠義の家臣の振る舞いに感服しました。一方、清秀の活躍によって、敵の浮き足立つ様子を見た村重は

『よし!今ぞ!攻めかかれィ!!』

と全軍に命じ、自らも茨木佐渡守と組討して佐渡守を討ち取りました。

勝敗は決しました。和田勢は遂に総敗北です。

しかし、戦いには勝ったものの清秀も多くの家臣を失いました。なかでも森市兵衛という家臣は敵将に体を刺し貫かれながらも組討にてこれを討ち取り、その首を膝の上に置いたまま息絶えたのでした。戦いの後、村重は池田から取り寄せた酒を振る舞い諸将の労をねぎらいました。村重は

『わしがたとえ和田の先手を打ち破ったとしても、鬼神と呼ばれる伊賀守(和田惟政)が旗本を率いて次々と攻めかかって来たならば、勝利することは難しかったであろう。あまつさえ和田の首を討ち取ったのであるから今日の一番の功名は清秀殿である。』


と言って一番に杯を清秀に勧めるのでした。この手柄により清秀は呉服台五百貫の領地を手に入れました。

【コラム】

清秀が和田惟政を討ち取った時、討ち取った惟政の兜に見かけない形の前立てが付いていた。変わった十字架(バテ十字)で、これが家紋「中川久留子(くるす)」の原型であるという。まさに清秀武功の証である。

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中川久留子

【白井河原合戦の図】

白井河原合戦は茨木唯一、最大の激戦で「白井河原とは名のみにて、川の流れは紅にそまる」といわれるほどの激しい戦いでした。

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2008年3月25日 (火)

《太郎助の歴史散策《信長・秀吉にも与(くみ)しなかった能勢氏の城》

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 先日城跡調査部部長さんと、能勢氏の居城があった丸山城(地黄城)と地黄御陣屋(地黄新城)の跡、そして菩提寺である清普寺(せいふうじ)に行って参りました。
その概略をお伝えいたします。

・能勢氏とは
 能勢氏は平安時代の後期、多田満仲の一族が能勢の郷に入って土豪となり、鎌倉時代の国基の代に能勢郡を領有して能勢氏と号し、この頃地黄(じおう)の丸山(俗称 城山)に城を構えたものと思われています。
永禄四年(1561)、能勢頼幸の三男として地黄丸山城に生まれた頼次は、生まれながらにして、戦乱の世と直面することとなりました。
頼次は明智光秀の軍団に属し、天正十年(1582)の本能寺の変には500の兵を出しました。その為秀吉配下の河原長右衛門宣勝(のぶかつ)らに攻め込まれ、丸山城ほか能勢の城下は焦土と化してしまいました。城主となっていた頼次は、能勢家の捲土重来を誓いながら、丹波国南桑田郡、備前国岡山、大和国郡山と諸国に深く潜行して行きました。やがて徳川家康に見出された頼次は、関ヶ原の戦いで軍功を上げ、旧領と共に十数ヵ村の預け地を安堵(あんど)され、誓い通り能勢に復帰しました。
 能勢氏が、徳川将軍有数の旗本として一国一城を領有し、強力な藩体制を築くことができたのは、信長、秀吉に与せず、徳川方で活躍した頼次の時代を読む卓抜な才能と勇猛によるところが大きく、家康も大坂方を睨む横目役として能勢氏に寄せる信頼が厚かったことをうかがわせます。


・地黄御陣屋
 頼次は、領内の野間社(布留の宮 ふるのみや 現在の野間神社)の再建、城下町の構築と併せて、慶長七年(1602)新しく地黄城の築造に着手します。
規模は東西75メートル、南北110メートル。大手門・搦手(からめて)門・堀も設け、四方には石垣をめぐらせました。城内には御殿・官宅など十数棟の屋舎を配し、
北隅には見事な三層楼閣まで備えました。普請完成は元和元年(1615)とされ、能勢氏中興の祖頼次の威光を讃える近世陣屋城として威容を輝かせたといわれます。
現在の能勢町立東中学校が城跡で石垣が良好な状態で残っており、虎口の跡の石垣などは見所です。

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地黄御陣屋の虎口
※虎口(こぐち)とは
 城壁、陣営の門に枡形を造り、曲がって出入りするようにした要所の出入り口。

・丸山城(地黄城)
 丸山城は、北から南に延びる尾根が地黄の中心集落に突き出た先端部分に築かれた平山城です。城址は地黄西北の小丘陵の南端にあって、山麓よりの高さは約60メートルあります。丘陵は南北に細長く、南より見ると丸く、丸山城の名にふさわしい形をしています。
大手口山麓に屋敷跡と思われるところがあり、ここに九重の塔の石碑が建っています。大手道を登ると三の丸の削平地があり、少し上がると二の丸の帯郭(おびくるわ)があり、その上に本丸があります。そこは、南北約四十五メートル東西約20メートルの平地で、三~四メートルの土塁で囲まれています。
西南と北面に上がり口があり、北の郭の北端は深い堀切となって丘陵を切断し、防御の堅固を示しています。

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本当に丸い!

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三の丸の削平地

九重の塔

・清普寺(せいふうじ) 
 能勢氏の菩提寺で開基は頼次。能勢家歴代の墓所が今も手厚くまつられている。

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清普寺の山門

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本堂。屋根にクルス?の様な文様が!

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能勢頼次の五輪塔

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能勢氏の五輪塔。その大きさにびっくり。

※参照図書 図解 北摂の歴史 郷土出版社

・おまけ(歴史小説 摂丹の霧)

 散策途中「嶋田酒店」という酒屋さんがあって、店の入り口に「明智の娘ガラシャ」という歴史小説の張り紙が!興味を引かれたので早速お店の中へ。
出迎えてくださった店のご主人に伺うと、ご主人の著作とのこと。自営業のかたわら作家もなさっているようで、「明智の娘ガラシャ」は「摂丹の霧」の続編とのこと。
さて、「摂丹の霧」は明智光秀に仕えた能勢氏三兄弟(頼次は三男)の視点から新たな明智光秀像を描こうとする意欲作で、能勢氏の事もよく分かります。
戦国史にご興味のある方は一読の価値があるのでは?
※「摂丹の霧」、「明智の娘ガラシャ」とも株式会社文芸社より出版 著者 家村耕(いえむら こう)

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お店入り口の張り紙

・おわりに
 当日は幸いにお天気もよくて、充実した一日でした。地黄城は今後の城跡調査部の散策予定に計画されるそうです。地黄は周囲を山で囲まれた盆地で、たいへんのどかな集落です。今から楽しみですね。


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2008年3月18日 (火)

原田城跡現地公開と講演会

終了しました

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「原田城跡・歴史と文化の会」と「豊中市教育委員会」の協働事業として、現地公開と講演会開催
原田城跡の土塁や、昭和初期の羽室家住宅(国登録文化財)の外観見学会を開催します。
ぜひ お誘いあわせの上 ご参加ください。

            記

☆ 現地公開(参加無料 自由参加)
日時 3月29日(土) 10時~16時
場所 原田城跡(曽根西町4丁目)
内容 城跡の土塁や、旧羽室邸住宅外観見学
    原田城跡周辺散策(ボランティアガイドの案内)
    こどもコーナー(おもちゃ作り、こま・剣玉遊び)

☆ 講演会(参加無料 申込み必要)
日時 3月29日(土)13時30分~16時30分
場所 中央公民館集会室
テーマ 「まち・観光・歴史的遺産」
     報告 「豊中の文化財・いま」
         地域教育振興課職員
     講演 「本当の観光を求めて」
         同志社大学教授 井口 貢さん
     講演 「文化財保護とまちづくり」
         帝塚山大学教授 中川郁郎さん

◆ 申込み 問い合わせ 市教育委員会
   06-6858-2581


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2008年3月16日 (日)

“待兼山修学館(大阪大学博物館)を訪ねる”

終了しました


  山田 廣次さんからのご報告


暖かな3月15日(土)、25名の参加で阪大キャンパスを訪ねました。

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石橋駅からほど近い構内は、樹木や丘、池などに囲まれ「待兼山」の名前の雰囲気が色濃く残っています。
そんな、小高い丘の上に「阪大イ号館(旧府立浪速高校本館・国登録文化財)」はあります。簡素な外観ながら、最上階窓の上部を三角に尖らせたり、付け柱を通すなど垂直性を強調するデザインは往時の学生達の上昇気運を表現しているのでしょうか。

次に訪ねた「待兼山修学館(国登録文化財)」は旧帝大医学部病院(石橋分院)として昭和6年に建てられました。外観は、医療施設らしく優しげで、小ぶりな窓が規則的に並んでいます。内部の階段室にはステンドグラスの飾り窓もあり、入院患者への心配りも垣間見えます。その建物が昨年8月「総合学術博物館」として再生されました。展示では、阪大の知的伝統はもとより、先端科学研究・活動が紹介されています。もちろん“マチカネワニ・実物骨格”もあります。

館内のセミナー室で、豊中市・教育委員会の清水篤さんから「マチカネワニと待兼山」についてお聴きしました。実物標本を間近にしての話は臨場感がありました。話の後、再度標本で確認したりしました。
待兼山を見わたす屋上からの眺めは、新古今集に待兼山のホトトギスを詠んだ周防内侍の歌(ただし季節は夏です)を偲ばせます。

建物玄関の吹き抜けや、ガラス張りのエレベーターなど内部は現代の手法で改造されていますが、外観や周囲の環境に歴史との繋がりを大切にする気持ちが見て取れます。城跡の旧羽室邸もこんな気持ちで保存活用したいものです。

最後はミュージアム・カフェで茶話会を楽しみました。

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2008年3月12日 (水)

城跡調査部会 講演会

終了しました

キリシタン鬼瓦の謎

豊中市立第4中学校から出土した、4枚の十字紋鬼瓦を長年調査研究されてきました会員の地方史研究家の高市光男さんに実物(現在 豊中市立中央公民館の収蔵庫に保管、教育委員会の許可を得て公開)を見せてもらいながら講演していただきます。

          記

日 時  4月12日(土) 13:30~15:30

場 所  豊中市立中央公民館 (3階 講座室)

定 員  30名 (申込先順)

資料代  100円 (会員外 200円)

申込〆切 2008年4月9日(水)まで

申込先  キリシタン鬼瓦の謎 山田さん

 Tel ・Fax 06-6848-3988


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2008年3月 4日 (火)

第6回古文書講座

scissors 終了しました。
 月1回の古文書講座も、もう6回を迎えます。
今回は中盤になりますので、交流会を予定しています。今後探求したい史料など話し合います。
ご興味のある方は、参加自由ですのでどうぞ!!
          記
日時  3月12日(水)18:30~21:00
場所  岡町図書館 3階

☆ 持参物  飲み物を各自ご持参ください 


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2008年3月 3日 (月)

〈住まいの調査部会〉主催見学会

待兼山修学館(大阪大学博物館)を訪ねる

昭和6年建設の「大阪帝国大学医学部附属医院・石橋分室」が昨年、大阪大学総合学術博物館として再生されました。(国の登録有形文化財)歴史遺産の保存・活用の事例を学びながら現地で「マチカネワニと待兼山」の講義を聴きます

         記

☆日 時  3月15日(土)(雨天決行)
    13時30分現地集合です

☆集合場所 大阪大学総合学術博物館
        1階玄関前
 (阪急宝塚線「石橋駅」下車 徒歩約10分

☆参加費  会員 100円 会員外 200円
        (資料・保険料共)

☆申し込み  FAX・TEL 06-6864-2247
         山田さん

内容
校内の阪大イ号館(国登録有形文化財)見学
旧府立浪速高校本館(昭和4年建築)
待兼山修学館・博物館自由見学

3時からセミナー室にて、講義
講師 豊中市教育委員会 清水篤さん
内容 マチカネワニと待兼山

解散予定 現地にて午後4時ごろ

その後 1階カフェで茶話会(自由参加)

マチカネヤマワニはどのような状態で発掘されたのでしょうね。想像しただけでわくわくします。


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