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2008年2月

2008年2月26日 (火)

城跡調査部からご報告

芥川山城跡探索

☆ 日時 平成20年2月23日(土)

芥川山城跡は三好山(標高182.7m)
(一部急な坂道、道幅60cm~1m位の所もあり
危険防止のため手袋を用意してください)

当日は季節の移り変わりの天地が定まらない日で
日差しあり 暴風は吹く ぱらぱらと霙は落ちてくると
悪天候 24名の参加者全員 元気に探索いたしまし
た (写真は奥田氏)


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2008年2月24日 (日)

タイワンのこと

〈はらだおさむ氏からの中国ビジネスエトセトラ〉

北京などでは春先の雪を、
瑞雪(おめでたいゆき)と歓迎

雨量の少ない北方では春先の雪は農耕民族にとって熱烈歓迎はわかりますが、当地の今年は雪の当たり?
朝晩の外出は要注意です。タイワンの総統選もはじまった模様。ご参考までにご笑覧ください


 わたしはタイワンには二度しか行っていない。
 しかし、1964年の春、香港から台北・松山空港に立ち寄り、2時間ほど空港待合室で沖縄・那覇空港へ向かう便を待っていた。
 わたしのパスポートには中国への入・出国の記録はない。だが香港からどこかへ出て、どこからか香港に戻っていることは記録されている。台北経由で沖縄へ向かうことは出発前から危惧されていたが、香港から沖縄へ行くにはこのルートしかなかった。
 当時のオキナワはまだ米軍の占領下にあった。
 知人の紹介で、「XXXXタイムス」を訪問するという業務目的の「旅行証明書」を大阪府庁で取得、中国からの帰途オキナワへ行くべく旅券も購入済であった。
 啓徳空港まで見送りについて来てくれた香港の知人は、「中共」からの帰りにタイペイ空港に立ち寄るのを危惧したが、わたしは「日本国」発行の旅券(の効用)を信用していた。
 空港待合室の売店でべっ甲細工などを見ながら、しかし、内心は挙動不審と疑われぬようにとドキドキしていたことを思い出す。
 案ずるより、であった。
 何事もなく那覇行きのフライトに乗りこんだ(どこの飛行機であったか?)。
 上空から見るオキナワはまさに米軍の基地であった。那覇の中心部はすべてが米軍の施設であり、基地であった(それから数回沖縄へ行っているが、その光景は基本的に変わっていない)。
 ところが、である。
 台北では問題にされなかったわたしの旅券が、那覇空港の検問で問題になった。現地の身元引受人に電話で確認され、手荷物以外はすべてボンドされて空港預かりとされた(別に「中共」のスパイでもあるまいに!)。
 出迎えに来てくれていた記者にも、乗車してからはじめて一部始終を語った(壁に耳あり、ここで拘留されてはマズイ)。
 大阪へ帰ってからしばらくすると、公安調査庁のひとが「竹のカーテンの、中共の話を聞かせてください」と来たが、いずれ新聞に書くからとお引取り願ったのであった(その後、業界新聞に「わたしの見た中国のクルマ」を連載)。
 これは、おまけのタイワンのことである。

わたしのタイワン・其の壱
 わたしがタイワンを意識しはじめたのは、中華人民共和国との対極としてであった。
 朝鮮戦争勃発の翌年、サンフランシスコ対日講和条約と日米安保条約がセットで調印された。「中華民国」との「国交正常化」であった。
 わたしはまだ高校生であったが、学内の自治会や新聞部がこれに反対、署名運動を展開していた。
 1957年からわたしは日中貿易に参画しているが、当然取引相手国である「中華人民共和国」との国交正常化を願望、「日台条約」の破棄を求める運動に連帯していた。
 わたしの初訪中のあと、いわゆる『吉田書簡』が出され(64年5月)、中国向けプラント輸出に輸銀融資不適用を台湾側に伝えている。わたしたち日中貿易業界は全国からバスを連ねて日比谷公園に集まり、その撤回を求めた。
 台湾側にとっては、わたしたちは不逞の輩(やから)であった。
 そのわたしが、台湾松山空港に居たのである。

 1967年は佐藤首相の訪台・訪米と蒋経国の訪日に反対する羽田空港での抗議行動があり、わたしの会社の社長が逮捕された(のち最高裁で無罪)。いわゆる
『羽田事件』である。
 1970年の「大阪万博」では、茨木市で「中国物産展」を開催、その会場から万博南ゲートへ向けて「台湾館粉砕」を叫んでデモ行進した。ハネあがりが「公安」の挑発にのらぬよう腐心したものである。
 そのころのわたしにとって、タイワンはまさに「粉砕」の対象であった。
 その歴史も、国民党が大陸から逃れて台湾で何をしたのかも知らなかった。

わたしのタイワン・其の弐
 わたしの学友(といっても大陸から引き揚げの年長者だが)のご主人は京大卒の台湾出身者。また後日一緒に旅行したことのあるお医者さんは、阪大卒の客家。いずれも元「日本国民」である。
 90年にはじめてタイワンに行ったとき。
高雄で食事をしていたら、同行の行政書士がひとりの台湾人を席につれてきた。たまたま廊下ですれ違ったという。それからがタイヘンであった。おなじ場所で同業の集まりがあるという。酒が入り、行きつ戻りつの交流は、いつのまにか軍歌の応酬となった。数歳年上のかれらが、ボクタチハニホングンジン、と声を張り上げる。「軍国少年」のわたしの知らない歌が多かった。

その4年前、大阪市経済代表団の一行と厦門を訪問していた。
 コロンス島の頂上にタイワンの方角を指差す鄭成功の像があった。
 ご存知「国姓爺合戦」、台湾島に中継基地を設けていたオランダを駆逐、そこを根城に明王朝の復活のため戦った、という「愛国者」の位置づけ。
 アモイの海岸から台湾の小金島が望めた。
 58年にこの島とアモイで激しい砲撃戦が展開されたが、その後は隔日にトーンダウン。わたしの訪問時では、午前は台湾側からジャズ、午後は中国側の京劇と歌の応酬に落ち着き、沖合いでは双方の軍艦が「海上交易」と称する“密貿易”を見守っていた。
 わたしはその後も二度アモイを訪れているが、いまではアモイから小金島には定期フェリーが行き交い、小金島から高雄まではひと飛びである。
 台湾の外省人にはこの地方出身者が多く、李登輝元総統の祖先の墓も客家地区にあった。

わたしのタイワン・其の参
 上海の知人で、わたしより年配の日本担当者は「元日本人」が多かった。
 神戸や横浜の在日華僑の「帰国子女」はどちらかというと同年輩。
 「元日本人」のほとんどは台湾出身者、「2・28事件」で国民党の追跡を逃れて帰国した「愛国者」である。
 敗戦後の台湾に、大陸から蒋介石の軍隊や官僚がやってきて日本の植民地であった台湾の行政を引き継いだ。「中華民国」に期待を抱いた本省人も次第にかれらの腐敗・堕落・無能ぶりにあきれ、“犬(日本人)は去りて、豚(国民党)来たる”<犬は五月蝿くとも役に立つが、豚はただ貪り食うのみ>と揶揄したのであった。
 1947年2月27日、闇タバコを売っていた本省人の女性に対し、取締りの役人が暴行を加えた。これが発端となって、翌2月28日(二・二八)本省人による抗議デモが行われ、これに憲兵隊が発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がった。追い回され、虫のように殺された本省人は多い。
 台湾映画『悲情城市』はこの事件をとりあげているが、この主人公たちのように学生や青年たちが憲兵に追われ、大陸へ逃れた。上海のわたしの知人もそのひとりであった。

わたしのタイワン・其の四
 アジアにおける「開発独裁」の評価は難しいが、1987年7月、蒋経国は台湾の民主化を阻んでいた戒厳令を解除した。台湾経済が一定の域に達したことがその背景にある。同11月には「親族訪問」という枠はあったが、大陸訪問が解禁され、次第に観光ツアー化してくる。
  わたしは翌年のいつごろだったか、杭州から上海へ向かう車中で老若男女の“台湾同胞”観光団に遭遇したことがある。
  わたしの前に座っていた、同年輩とおぼしき男性がつたない日本語で話しかけてきた。わたしが「祖国訪問の感想は?」と話をむけると、「祖国ではない、でも安心した」という。生活レベルがちがう、物価も高い、台湾のほうがいい、でも、中国はひとつ、『国共』の政治の道具にされるのではなく、時間をかけ、交流を通じて、双方の人民が話し合い、納得ずくで決めること、と話していた。
かれは台中・新竹の生粋の台湾人、わたしとおなじ日本の「小国民」であった。

わたしのタイワン・其の五
 2001年10月、わたしはWTOの中台同時加盟(実際は24時間のタイムラグが設けられていたが)の瞬間をタイペイで実感したいと、台湾企業訪問のアレンジを知人の日系紙・台北支局長に依頼した。
 二度目のタイワン訪問である。
 台湾の対中投資は92年の鄧小平の「南巡講話」以降激増、2000年ごろになると南の東莞市から上海・蘇州周辺へIT産業の進出が目立ってきた。
 台湾でも産業の空洞化が問題視されたが、台湾経済界を代表する辜振甫・台湾セメント董事長と王永慶・台湾プラスティック会長が対中経済交流に積極的であった。前者は海峡両岸機構の台湾代表(中国代表は汪道涵元上海市長)で、香港の李嘉誠グループと組んで通信事業、後者は江沢民の長男と上海でITの合弁事業を展開中であった。
 訪問企業数社の内一社のみが技術情報の流出を懸念して対中進出には慎重であったが、他の企業はすでに中国で事業を展開、さらに発展・拡大を期待していた。
 
海峡両岸機構の両代表は既に鬼籍にあるが、そのタネはいま江沢民らの上海グループ内で増殖している。シャンハイの闇社会を仕切っているのは、タイワン・グループとの噂もあるがどうだろうか・・・。
日系企業の、台湾企業との交流も水面下では盛んである(“アウン”の理解力がその魅力とか・・・)。

 中台をはさむ海峡のうねりは時につれ変化するであろうが、外省人も本省人も同じ台湾人、知恵を出し合って乗り越えて行くことであろう。
                  (2008年1月28日 記)

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2008年2月17日 (日)

寒い毎日ですが

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日本民家集落博物館では
9日の大雪にも負けずに
紅梅 白梅が
いい香りを漂わせています

1月末に母屋完成予定の
椎葉の古民家は
もう屋根が葺き上がっていました

これからは梅林散策にあわせて

2月23日(土) 3月1日(土)には
☆ 琴の演奏会
☆ お茶セミナー
☆ オカリナづくり など

2月24日までは 
☆ 「江南水郷の写真展」と

行事が続きます

梅見がてら
散策にいかがですか?


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2008年2月14日 (木)

豊中水墨画協会展

scissors 終了しました


会員のご夫妻が参加活躍なさっている水墨画協会展が開催されます。
身近なギャラリーですから、どうぞお立ち寄りくださいませ。

日時 2月19日~24日まで
    10時~19時まで
場所 豊中市立市民ギャラリー
    (豊中駅南側高架下1階)
主催 豊中水墨画協会

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2008年2月 6日 (水)

諸葛孔明の村

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中国浙江省の紹興市から杭州の山中にある三国志で名高い諸葛孔明の末裔が住んでいる諸葛古鎮の写真
風水によりつくられた村は、今もその当時まま、52代目の子孫の案内で村中をたづね歩く。
水と山を取り入れた8つの村は、静かで人々の生活が悠久の中にそのまま受け継がれているのがよくわかる。
よくここまで保存できたものと、今回の旅ではそればかりを再発見させられる。
文革時はどうだったのかとたづねると、やはり屯所に利用されたとのことだった。

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2008年2月 4日 (月)

立春ですね

昨日は節分
豆まきはされましたか
年の数だけ豆を食べましたか
南南東に向かって
だまって 巻き寿司の丸かぶりをしましたか
いわしもたべましたか
鬼は焼きいわしのにおいが苦手らしい
入り口に焼きいわしの頭を
柊の枝につけて挿しましたか
こんな 昔からの行事
大事にしたいものです

明けて今日は立春
心なしか 日差しがあたたかいです

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2008年2月 2日 (土)

雪の烏鎮古鎮

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1月24日から29日まで中国浙江省へ旅していました。
紹興・武義・杭州の古鎮をめぐる旅でした。
28日、29日は雪の杭州で(当地でも50年ぶりの雪とか)
交通マヒ(高速道路は観光バスは通行止め)のろのろと一般道路を走り予定が遅れていきます。
あちこちで車の事故が多発しておりました。
ホテルの従業員はさりげなく西湖の雪景色を携帯カメラにおさめてどことなくはしゃいでいました。
三国志の孫権の龍門古鎮、諸葛孔明の古鎮、文革から守った新葉古鎮、風水村の愈源古村
湖洲市では南潯古鎮、烏鎮古鎮
その雪景色を見てください

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