『はらだ おさむ』氏 コーナー
激流の「和諧社会」
9月はじめ、山東省の三つの世界遺産を訪ねるたびに出た。
10年ぶりの青島、関空からの直航ははじめてである。
四人組が逮捕され、文革が終焉した直後の77年2月、北京から夜行の“火車”でススだらけになって到着した冬の青島の駅前旅館。出された魔法瓶で洗顔したあとの朝食に目玉焼きとトーストが出た。ここは北京ではない、ドイツの租借地であったのだと痛切に感じた記憶がある。
それから数年 輸入商談や技術交流などで春夏秋冬の青島を、十数回は訪問したか。桟橋賓館のほかにホテルらしきものはなく、南欧風の赤レンガの別荘のあれこれに宿泊したものだった。いまは観光コースのひとつになっている蒋介石の別荘やドイツ総領事公邸にも泊まったが、極めつけは重光公使(往時)別荘の3階和室での幽霊騒動、夜中に浴衣姿の女性が現れ海のほうへスーッと姿を消した、という一幕。夏の夜の松風の音にも肝を冷やしたものである。
いまはむかし。
10年前に上海から青島へ飛来したときは、もう海岸沿いに高層ビルが林立、泊まったホテルも外資系の5星であった。
そしていま、関空からのフライトはさらに現代化した青島国際空港へと高度を下げている。
青洲博物館
空港から市内へ入らずそのまま斉青高速道路で青洲博物館へ向かう。
宮城谷昌光が描く古代中華世界の斉の国。
この地はいまもアルカリ土壌で、水耕には適さない。
とうもろこしと麦の農業に、いまは有機栽培農業が加わり、高速道路の左右はその地の果てまで、輸出用野菜のビニールハウスが30分以上も続いていた。同乗の現地ガイドはその70%以上が韓国と日本向けと説明する。メイドインチャイナに、ノーサンキューとばかり言えない事情がお互いにある。
古都青洲の文物を一堂に集めたこの博物館の裏庭で、400体に及ぶ石仏が発見されたのは1996年のこと。南北朝時代(439~589)に隆盛をきわめた青洲龍興寺の地下に作られた窟蔵に収められていた。いつどのような理由で埋められたのかにはまだ定説はないが、このいくつかの石仏が数年前東京で展示され、それを見た知人の感動がわたしたちを衝き動かし、この地へと足を運ばせたのであった。
博物館はすでに閉館間際であったが、そのせいだけでもあるまい。
訪れるひとは皆無であった。
入館者が少なくて、冬場は職員の人件費が払えず閉鎖していたという。
来年から政府が力を入れて博物館を新築、観光誘致に力を入れるとのことであったが、翌日観た隣の市の中国古車博物館はバリアフリーの見学コースに観光客があふれていた。
人影のない青洲博物館で、わたしたちは特別の計らいで仏像を心ゆくまで拝観させていただいたが、これって先見の恵み、と喜んでいいのだろうか。
泰山
20数年前、青島往復の夜行列車のたびで中国一の名山のふもとは何回か通ったが、そのころはまだビジネスオンリー。泰山鳴動 鼠一匹は何時でも出せると思っていたが、さにあらず。
青洲から岱廟へ高速道路で3時間。
時の皇帝が即位すると、はじめてこの山に登ったとされる秦の始皇帝のひそみにならって、泰山に登攀、東の海から昇るご来光に五穀豊穣と国家安寧の祈りをささげた、といわれる。
江沢民前主席は皇帝気分でもあったのか、その絶頂期には二日間観光客を立ち入り禁止にさせて登頂、いまに至るも嘲笑のネタにされている。
ロープウエイの建設、登山路の整備などなどで高いと旅行社も口にする入山料であっても押し寄せる観光客のおかげであろう、地元泰安市の庁舎は辺りを睥睨するかのごとき大宮殿。シーズンに当地へ出稼ぎに来ている日本語のガイドは、おかげさまでと笑いながら政府幹部の“商売”を口にする。
わたしは杖をたよりの登山とあって、ロープウエイから先は遠慮したが、中国の善男善女は海外組を含め七千もの階段をロープウエイも使わずに登って来る。ごりやく(利益)は自分の手足で、というわけか。わたしのカメラにポーズをとる中年の夫婦もいた。
“重きこと泰山の如し”、“穏やかなること泰山の如し”、いくつかのフレーズが浮かんだが、わたしは軽きこと胡蝶の如しとばかり、絵葉書売りの少女のお手伝いをして、時間をつぶしていた。
これでも五大名山のうち、四つ(泰山、黄山、蛾眉山、炉山)は登ったこととしておこう(他に佛教霊場の五台山、天台山も行きました)。
曲阜三孔
孔子のふるさと 曲阜は周・漢時代の800年間 魯の国の古都であった。
孔廟、孔府、孔林は中国国内だけではなく世界の儒教の中心、世界遺産である。建築規制があり、3階以上の建物はない。年間100万人を超える観光客が訪れるが、最近になってやっと郊外への新しい街並みが姿を見せ始めている。
その界(さかい)に魯の古城壁の一部が道路拡張のため切断されながらも保存されていた。市内の地下には魯の遺跡が未発掘のままになっている。
三孔の3時間あまりの強行視察は、足の不自由なわたしには苦痛であった。
わたしには、この建物や孔子家の歴代の墓には興味がない。
文革時代 儒教は否定され、四人組は“批林批孔”をスローガンに一大闘争を仕掛けた。毛沢東暗殺に失敗して逃亡、モンゴルで墜落死した林彪を批判する“批林”はわかる、しかし孔子批判と見せかけて実際は周恩来を現代の孔子、周時代にひっかけての“批孔”キャンペーンは、周恩来だけではなく復活したばかりの鄧小平も標的にしていた。四人組最後のあがきであったのかも知れない。そして76年10月、かれらは逮捕され、文革は終焉した。
それから30年、毛沢東に一部の誤りはあった、とアイマイなかたちで総括して改革開放の道を歩んできた中国で、いままた儒教精神が唱えられ、孔子が復活したのはなぜか。
シンガポールのリー・クワン・ユーが伝記のなかで書いているという「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」ということだけなのであろうか。
文革を知らない32歳の現地ガイドにそのことを聞いてみた。
先ほどまで孔子の業績を流暢に説明していた彼は、少し考え込んでわたしにつぎのように語ったのであった。
「孔子の思想は、支配者のものです。この孔子廟は文革以前でも、明代の農民一揆のときも破壊されています」
“以人為本”
「衣食足りて礼節を知る」
中国の小学校の教科書「品徳と社会」にも、孔子は偉大な思想家として復活している。
中国の党校と目される中国人民大学の構内に2001年孔子像が設置され、
04年には曲阜孔子廟において政府主催の孔子生誕二千五百五十五年大祭が盛大に挙行され、全国にテレビ放映された。
文革で批判の対象であった孔子は、政府・党ともに公認され、完全に復活している。テレビや大学の論語講座は好評で、関連の書籍の売り上げは数百万台のベストセラーとなっている。
リー・クワン・ユーの指摘する道徳の荒廃に政府は対処しかけたのか。
「衣食足りて」徳育教育に乗り出したのであろうか。
胡錦涛政権は2年ほど前から「小康社会」の実現のために“以人為本”(人を以て、本=もととなす)をあげている。「和諧社会」同様、あいまいなスローガンである。
今年の8月30日に重慶日報から転載のかたちで、中国共産党機関紙「人民日報」のホームページ「人民網」に劉文権と署名の「以人為本 古為今用―弘揚以人為本的人文精神」なる論文が転載されている。孔子の精神を説き、孟子の“仁政”にもふれている。
また、このホームページのサイト「強国論壇」は政府批判の多いメールで知られているが、先日は大学教授が読者と論争するかたちで、この“以人為本”をとりあげていた。わたしは2年前の反日騒動時からこのサイトは若者たちの“ガス抜き”に共産党が利用していると見ているが、“以人為本”の人とは誰を指すのか、という論争は興味深かった。
人とは、具体的に誰を指すのか、政府幹部か、資本家か、農民か、学生か、
人を以て本と為す「小康社会」は誰のための社会なのか、政府幹部と資本家が癒着した、彼らに都合のいい社会をめざしているのではないか、という鋭い指摘が読者からなされていた。大学教授は“人本主義”はヒューマニズムに基くもので、それは中国的仁政にあたると説得していたが、わたしの目では読者の納得が得られていなかった。
しかし、たとえガス抜きであれこうした論争が不特定多数の読者と共産党のホームページ上でなされていることは興味深い。
“衣食足りていない”農民が暴動を起こすのも、それがガス抜きの範囲内なら容認しよう、というハラなのか。
帰国前日 定年後起業した知人夫妻と夕食をともにし、翌朝彼の住宅とオフィスを訪れた。
来夏の北京五輪のヨットレース会場になる海浜に新設された別荘地の3階建てのフラット、その2階にかれの住宅と入り口が異なる従業員二人の貿易会社があった。いまの彼の悩みは一人娘が結婚後アメリカ住まいのこと。10年以内に会社を二人の従業員に譲れるよう、ビジネスが順調に推移できること、であった。
30年近く前 かれとビジネスで付き合っていたころでは、いまの青島のかれの優雅な生活は考えることは出来なかった。かれは小さな悩みを抱えながらも実現した「小康生活」をエンジョイしているようであった。(2007年10月3日 記)
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コメント
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投稿: 徳育 | 2007年10月17日 (水) 09時15分
徳育 さま
子供たちには必要な常識を教えるという部分ではいいと思います。
その前に、大人がもっと社会に対する常識を身につけてほしいと思います。世の中 損得だけではないのですが・・・・・
投稿: haradajyousyu | 2007年10月19日 (金) 11時22分